chaoはゆめみがち

このブログでは、リアルの友人関係ではなかなか言えない部分を表に出すことを目的としたいと思っています。 普段思っていることや感じたこと、ただの日常生活のことなど、雑記です。 意見を頂けるのはうれしいです。 が、あくまで個人の感想を書き記すものですので、合理的・理性的な対応を求めます。 ではお手柔らかに、よろしくお願いします。

【レビュー】万引き家族【感想】

 ネタバレ注意!! 

 

 公開中のこの映画を見てきました。

 パルムドールを受賞したということで、メディアでは連日大層な報道がなされていた。

 この賞自体の重みは知らないし、どうもメディアでの報道があるほどに裏があるのではないかと怪しく感じてしまうところである(笑)。どうも調べてみると、やはり怪しい部分がいくらか出てきてしまう。そのような思想と作品を別に判断して見てみようと思うが、なかなか難しいところもあった。なので今回は結構偏った見方をしてしまっているだろう。ファンの方には申し訳ないかもしれないが、これも一意見ということで。

 

 【あらすじ】(Wikipediaより部分改変)

 東京の下町に暮らす、日雇い仕事の父・柴田治(リリーフランキー)とクリーニング店で働く治の妻・信代(安藤サクラ)、息子・祥太(城桧吏)、風俗店で働く信代の妹・亜紀(松岡茉優)、そして家主である祖母・初枝(樹木希林)の5人家族。家族の収入源は初枝の年金と、治と祥太が親子で手がける「万引き」。5人は社会の底辺で暮らしながらも笑顔が絶えなかった。

 冬のある日、近所の団地の廊下にひとりの幼い女の子が震えているのを見つけ、見かねた治が連れて帰る。体中に傷跡のある彼女「ゆり」(佐々木みゆ)の境遇を慮り、「ゆり」は柴田家の6人目の家族となった。

 しかし、柴田家にある事件が起こり、家族はバラバラに引き裂かれ、それぞれの秘密と願いが次々に明らかになっていく。

 

 この映画の結末として、

  治→釈放、日雇いの日々に戻る 信代→逮捕 祥太→施設

  亜紀→家に戻るも誰もいない 初枝→死 ゆり→元の家庭に戻される 

 

 それぞれ、立場というか役割がどうなったかしか基本的には描かれていない。ゆりはまた虐待の日々に(明確に描写はされておらず、放置程度ではあるが)戻され、マンションの廊下で初枝たち「家族」と過ごしたときに教えてもらった数え歌を数え、どこか帰りを待つような、遠い目をして終わる。救いがない。

 

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 見終わった後に、「たくさん考えさせられる」。大衆を相手にした娯楽である以上、それなりの理解レベルに落とし込むことの難しさがあり、そういった点では良作である。多くの人が考えるのは、貧困、家族の絆、教育、正義、余裕のなさ、地域社会の崩壊……どれも今の日本の世の中を反映させたものだと言える。話のタネとしては面白いのかもしれないが、そんな中で私が一番感じたことはこれである。

 

 結局のところ、監督にはこれといった意見がない。意見がないから結末を作ることができない。題材が題材だけに、誰もが納得できる結末を作ることは難しいとは思う。しかし、批判を受ける覚悟で結末(=自分の意見)を言うことができないのでは、この人は芸術家としては一流であるといえないのではないか。この人には結末を畳む勇気がないよう思える。(逆に曖昧で終わらせるのも勇気なのだろうか?)ちなみに、この投げっぱなしの終わり方は、「海街diary」でも同様だった。

 自分自身は問題提起、批判するだけしておいて、自分はされないようにするなんて、卑怯だと思う。まさしくそういった卑怯で責任を取らない自分勝手なやり方、やりたいほうだいやって文句言うだけ言って、といった団塊、マスメディア、左翼的な姿勢が今の日本を作ったのではないかと思う。つまり、この人は本来批判されるべき側にいる人間でありながら、この社会を批判する立場をとっている。騙されてはいけない。

 また、一般的に見ると犯罪者が逮捕されることになるのだから、懲悪モノとしてハッピーエンドと言ってもよいのに、後味の悪さを感じるのもこの結末のせいだろう。いいことをした人間に、悪い後味を抱かせるのはひねくれていると思う。

 この映画を見たときに感じたのは、クジラックスの作品と共通項があるように思った。彼の作品には、女児レイプを題材として定型的に生きられない人間の孤独や苦しみを描いている面がある。個人的には、是枝監督の作品がパルムドールを受賞できるなら、彼にもパルムドールを受賞できるだけの脚本能力はあると思う(もちろん映画撮影の技術や工夫といった点についての評価もあるので全く同じというわけにはいかないし、そもそも題材が大衆に到底受け入れられるものではないだろうが、それも現実である)。

 そのような点でも、「万引き」という行為をリアルに描くことも不十分である。冒頭部は、ドキュメンタリーではないものの、かなりドキドキさせられる。しかし、万引きの技術が拙すぎる。クジラックス模倣犯が出るほどに写実的である(笑)。このような描写にしたのは、登場人物が頭の悪い底辺家族だからなのかもしれないし、模倣犯が出ないようにわざとしているなど、理由(言い訳?)も考えられるが、単純にそこまで思いつかなかったようにも思う。映画のなかなのだから、自由に創作はされてよいだろう。

 

 

 監督の思惑にのるとすれば、監督が一番伝えたいこと教育(=努力)の大切さだろう。

 この家族が「まともに」生きられず、人の道を外れていくのは、間違いなく学がないからである。今の日本でエリート、高収入、高い地位を獲得しようと思うのならば、高学歴・高偏差値の学校に入ることが肝心だろう。高収入や高い地位は自然と降ってくるものではなく、掴み取るものである。特に学力に関しては、才能もあるかもしれないが、子育て、教育で十分に変わる。仮に一代で成せずとも、少しずつ地位を高めていくことは可能である。金持ちの子と貧乏な子ではスタートラインや環境がそもそも違うという意見もあるようだが、なんのために義務教育、国公立が存在しているのだろうか。やれ私立に通わせたい、習い事をさせたい、そういった点に対して結局親の学がなく、頭がないから無駄な幻想を抱き、見合わない生活をすることになるのである。

 勉強は努力であり、教育は教える側も教えられる側にも忍耐が求められてしまう。だからこそ努力は尊いし賞賛されべきである。努力をないがしろにし、馬鹿にするような人間は真面目に努力することを放棄しているし、落ちぶれてしかるべきである。

 

 しかしながら、そう簡単に現実が変えられるならこんな現状はないわけで……。現実が救われないのなら、フィクションの中でぐらい救いを求めたい。しかし、もうそれすら今は許されない。そういうことなのかもしれない。今も未来も暗い。