chaoはゆめみがち

このブログでは、リアルの友人関係ではなかなか言えない部分を表に出すことを目的としたいと思っています。 普段思っていることや感じたこと、ただの日常生活のことなど、雑記です。 意見を頂けるのはうれしいです。 が、あくまで個人の感想を書き記すものですので、合理的・理性的な対応を求めます。 ではお手柔らかに、よろしくお願いします。

夢 その5

【日時】

 昼

 

【場所】

 茶色い岩の崖、崖同士や狭間にアスファルトの道が伸びている(グランドキャニオン的な)

 

【内容】

 晴天。日差しがまぶしく、行楽日和といった感じだ。私はグランドキャニオンのような場所で、崖から落ちないように道の上を運転している。オープンカーだったような気がする。

 途中で、母に運転手が後退される。何か会話を交わしたような気もする。下り坂に差しかかかり、スピードが増したので、減速するように促したが、「これぐらいなら曲がれる。」とそのまま走る。結果、スピードがつきすぎて曲がり切れず崖から落ちる。
 落ちていく車中から、下に川が見える。真下は川ではなく地面(岩)。落ちた高さはおそらく100m以上。死を覚悟し、しかし無駄と分かりつつも衝撃に耐えようと身体を屈める。いよいよ地面とぶつかる、というその時、意外と衝撃がなく着地する。身体は当然無傷で、車もまさかのパンクぐらいで済んだ。

 

【考察】

 考察に入る前に、実はこの日、この夢以前にもう1つ夢を見ている。そちらの夢は詳細は一切覚えていないが、結末が死ぬことだったのは覚えている。あまりいい夢ではなかったように思う。

 さて、本題である。まず、この崖という場所についてだが、現実で行ったことのある場所ではない。おそらく、テレビのヘリやドローンから俯瞰的に見たグランドキャニオンや、L'Arc~en~CielのDriver's highのMV(スポーツカー、落ちるというEDも含め酷似している)から連想されたものだろう。崖という場所には特に思い入れはないが、その性質上「飛び降り自殺」が、また、乾燥した地、荒廃というイメージから「孤独」が連想される。

 登場人物とその会話、行動パターンに関しては、ほぼほぼ現実的だと言える。特に、こちらが言ったことに対して思うような反応や言葉・態度が返ってこないことは私を悩ませる重要なファクターになっているので、おそらくそれが反映されたと思う。

 一方で今までと少し違うのは、死という結果が予測されのに対し、自分が制止しているのことである。また、制止しているのにも関わらず、飛び降りるという行動が外部から強制された状態であることである。

 自分が制止しているのは、おそらく死ということに対しての恐怖感や希死念慮の薄れが考えられる。自分の特徴として、傷つく事象が起こったり、暇な時間が長く続いたりすると、思考を深く潜らせて人生や死、自分というものについて考えてしまう。生活リズムの変化や人間関係の影響で、ここ数日は楽しい時間が増え、それらについて考える時間は大幅に減っている。

 そうすると、飛び降りるのが止められなかったのは、確固たる自殺願望があるわけではないといえる。私は以前に周りに自殺を仄めかし(公言し?)た。整合性や一貫性を気にする自分としては、後に引けなくない状況に自分を追い込んでいるのも自覚できている。要するに、夢の中で制止している自分は現在の自分(楽しい)で、崖の上から飛び降りたのは過去の自分(整合性、一貫性、意地)の象徴だといえる。その中で、自分は整合性をとったのだ。

 人は変わる。新しい意見や知識を吸収し、以前と言っていたこととのズレは起きる。

ネット社会になって、過去の発言がほじくり返されることもある。しかし、場合や状況、立場によって言うことは変わる。それができるのは、貪欲に吸収できる若さ(幼さ)があるからかもしれない。その若さを許せないことはもったいない。

 しかし、保身や円滑な人間関係のために風見鶏のように180度向きを変えてしまうのは人としていかがなものか。やはり、今の自分の終着点は、「人とはどうあるべきか」という話に行き着くようだ。

 そしてその結論を出せていない以上、夢の終わりは軟着陸で、「意外と大丈夫だったじゃん」ということなのだろう。果たしてこれは正しいのか。いや、これも正しい結果の一つなのかもしれない。今の私には、そう思える。