chaoはゆめみがち

このブログでは、リアルの友人関係ではなかなか言えない部分を表に出すことを目的としたいと思っています。 普段思っていることや感じたこと、ただの日常生活のことなど、雑記です。 意見を頂けるのはうれしいです。 が、あくまで個人の感想を書き記すものですので、合理的・理性的な対応を求めます。 ではお手柔らかに、よろしくお願いします。

ブログでの文の書き方

 「持論」というカテゴリを作ってみました。

 もともとこのブログは、リアルの生活でははっきり言うことが難しい……でも言わないままだと自分がおかしくなっちゃう。そんな感じで自分の意見を吐き出す、主張するために作ったものなのです。なので、思い切ってそんなカテゴリを作ってみました。

 

 さて、今回は「書き方」についてです。試行錯誤の途中なのですが、今の時点の自分の意見を書いてみます。

 

 

 まず、一番大切なのは段落分け(=一字下げ)。基本的に字だけで伝えるので、そうなったときに話がここで変わっているなというところで段落を変えると、視覚的にわかりやすい。こういうのがやさしさだと思う。写真や絵図をうまく挿入するのもいいが、これでは文章を書く能力は上がらないだろう(そもそも使い方わからないし、面倒でもある)。

 もちろん、段落ごとの文章量も大切である。人によっていろいろだとは思うが、私の場合は多くても7行までには抑えたいと思っている。横に並ぶ字数や字の大きさにもよるのでが、自分が読んでてサクサク読める量にしないと、校正も大変になる。

 しかし、ブログという媒体になると、段落分けよりも、改行を繰り返して余白を作るほうが見やすいようにも思うのである。このあたりが現在試行錯誤をしている所以なのだ。

 次に大切なのは、文体である。読みやすさを重視するならば、完結に内容を伝えられる常体(だ・である体)を使うほうがよい。しかし、ブログの目的がとにかく多くの人に読んでもらおうと思うことならば、敬体(です・ます体)のほうが角が立たないのでよいだろう(もちろんその場合は内容や意見も重要)。常体と敬体が混じることは、違和感があるためおすすめしない(うまくつかえばその限りではない)。

 他にも、句読点を適切に使うこと(1行に最低1ヶ所はつかう)や、漢字とひらがなをうまく混ぜることも大切である。大切なのは、できるだけ解釈がぶれず、語弊のないようにすることである。難解な言葉を使うかどうかは個人に任せられるが、それだけ内容に興味を引くものでない限り、使うほど読む気は失せるだろう。

 応用として太字や斜体、字の大きさ・色、フォント、アンダーラインなどで強調する方法もあるが、これはそこが大切だとわかる一方でほかの部分への興味が薄くなるので、諸刃の剣となることもある。まずはそこに頼らないで書けるようにしたいものだ。

 

 というわけで、私の文章はこういう点に気を付けて書くことにしている。今後も特定の読者を作ろうという意図はないが、読み手が増えるのは嬉しいことである。なので、もしこういったことをすれば読みやすいよ、というアイデアがあれば教えてほしい。

 

 

 

タイトルってどうつけたらいいの?

タイトルってどうつけたらいいの?っていうお話。

 

王道で行くなら、

書いた内容を要約して、それを一言にまとめる。

疑問形とか途中で文を止めて目を引く形にする。

なんてのが考えられる。

 

私の場合は、単純にタイトルをつけることに恥ずかしさがあるのだけど、でも味気ないのもよくないし、何より自己表現になれないといけないと思うので。

 

というわけで、これからはちょっと頑張ってタイトルをつけてみようと思います!!

頑張れ、私!!

雑記

 サッカーを見ていたらこんな時間になりました。普段全く見ないのに、今年は暇なのでよく試合をみています。

 ベルギー戦、おしくも負けてしまいましたね。素人目には、もう少し早くに交代してあげたらよかったと思います。せっかくリードしている状態で、選手に疲れが見えてきたので。あと、交代枠を使い切って新しい風を入れたり、経験を積ませたりすることも大切だったように思います。大舞台だからこそ、若手を積極的に活用し、育てる場にするのも一つかなと思いました。まあ私はサッカーとか詳しくないので、きっと専門家が見ればまた違うことを言うでしょうし、これも結果論ですから意味はないのですけれどね。

 でもこれだけは言えるのは、日本代表の頑張りのおかげで、サッカー観戦・応援を楽しむことができました。ありがとう!よく頑張ってくれた!!

 

 昨日は久々に作曲を再開しました。できたものに対して、やっぱり文句を言うてきおる……。以前より幾分マイルドだとしても、やっぱり第一声がそれってのは、喧嘩売っているというか、踏みにじっているというか……。

 まあ自分が納得できているから、それでいい!!あいつなんて、全然たいしたことないから!!!と思おう。笑

 あと小説書きも少し挑戦してみた。キャラの性格とかが決まってれば、割と書けそうだね。結構多才じゃんね、私。笑

 今日も体力といい発想が浮かべば、トライしてみよー!!がんばってるよ、私!!

【レビュー】万引き家族【感想】

 ネタバレ注意!! 

 

 公開中のこの映画を見てきました。

 パルムドールを受賞したということで、メディアでは連日大層な報道がなされていた。

 この賞自体の重みは知らないし、どうもメディアでの報道があるほどに裏があるのではないかと怪しく感じてしまうところである(笑)。どうも調べてみると、やはり怪しい部分がいくらか出てきてしまう。そのような思想と作品を別に判断して見てみようと思うが、なかなか難しいところもあった。なので今回は結構偏った見方をしてしまっているだろう。ファンの方には申し訳ないかもしれないが、これも一意見ということで。

 

 【あらすじ】(Wikipediaより部分改変)

 東京の下町に暮らす、日雇い仕事の父・柴田治(リリーフランキー)とクリーニング店で働く治の妻・信代(安藤サクラ)、息子・祥太(城桧吏)、風俗店で働く信代の妹・亜紀(松岡茉優)、そして家主である祖母・初枝(樹木希林)の5人家族。家族の収入源は初枝の年金と、治と祥太が親子で手がける「万引き」。5人は社会の底辺で暮らしながらも笑顔が絶えなかった。

 冬のある日、近所の団地の廊下にひとりの幼い女の子が震えているのを見つけ、見かねた治が連れて帰る。体中に傷跡のある彼女「ゆり」(佐々木みゆ)の境遇を慮り、「ゆり」は柴田家の6人目の家族となった。

 しかし、柴田家にある事件が起こり、家族はバラバラに引き裂かれ、それぞれの秘密と願いが次々に明らかになっていく。

 

 この映画の結末として、

  治→釈放、日雇いの日々に戻る 信代→逮捕 祥太→施設

  亜紀→家に戻るも誰もいない 初枝→死 ゆり→元の家庭に戻される 

 

 それぞれ、立場というか役割がどうなったかしか基本的には描かれていない。ゆりはまた虐待の日々に(明確に描写はされておらず、放置程度ではあるが)戻され、マンションの廊下で初枝たち「家族」と過ごしたときに教えてもらった数え歌を数え、どこか帰りを待つような、遠い目をして終わる。救いがない。

 

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 見終わった後に、「たくさん考えさせられる」。大衆を相手にした娯楽である以上、それなりの理解レベルに落とし込むことの難しさがあり、そういった点では良作である。多くの人が考えるのは、貧困、家族の絆、教育、正義、余裕のなさ、地域社会の崩壊……どれも今の日本の世の中を反映させたものだと言える。話のタネとしては面白いのかもしれないが、そんな中で私が一番感じたことはこれである。

 

 結局のところ、監督にはこれといった意見がない。意見がないから結末を作ることができない。題材が題材だけに、誰もが納得できる結末を作ることは難しいとは思う。しかし、批判を受ける覚悟で結末(=自分の意見)を言うことができないのでは、この人は芸術家としては一流であるといえないのではないか。この人には結末を畳む勇気がないよう思える。(逆に曖昧で終わらせるのも勇気なのだろうか?)ちなみに、この投げっぱなしの終わり方は、「海街diary」でも同様だった。

 自分自身は問題提起、批判するだけしておいて、自分はされないようにするなんて、卑怯だと思う。まさしくそういった卑怯で責任を取らない自分勝手なやり方、やりたいほうだいやって文句言うだけ言って、といった団塊、マスメディア、左翼的な姿勢が今の日本を作ったのではないかと思う。つまり、この人は本来批判されるべき側にいる人間でありながら、この社会を批判する立場をとっている。騙されてはいけない。

 また、一般的に見ると犯罪者が逮捕されることになるのだから、懲悪モノとしてハッピーエンドと言ってもよいのに、後味の悪さを感じるのもこの結末のせいだろう。いいことをした人間に、悪い後味を抱かせるのはひねくれていると思う。

 この映画を見たときに感じたのは、クジラックスの作品と共通項があるように思った。彼の作品には、女児レイプを題材として定型的に生きられない人間の孤独や苦しみを描いている面がある。個人的には、是枝監督の作品がパルムドールを受賞できるなら、彼にもパルムドールを受賞できるだけの脚本能力はあると思う(もちろん映画撮影の技術や工夫といった点についての評価もあるので全く同じというわけにはいかないし、そもそも題材が大衆に到底受け入れられるものではないだろうが、それも現実である)。

 そのような点でも、「万引き」という行為をリアルに描くことも不十分である。冒頭部は、ドキュメンタリーではないものの、かなりドキドキさせられる。しかし、万引きの技術が拙すぎる。クジラックス模倣犯が出るほどに写実的である(笑)。このような描写にしたのは、登場人物が頭の悪い底辺家族だからなのかもしれないし、模倣犯が出ないようにわざとしているなど、理由(言い訳?)も考えられるが、単純にそこまで思いつかなかったようにも思う。映画のなかなのだから、自由に創作はされてよいだろう。

 

 

 監督の思惑にのるとすれば、監督が一番伝えたいこと教育(=努力)の大切さだろう。

 この家族が「まともに」生きられず、人の道を外れていくのは、間違いなく学がないからである。今の日本でエリート、高収入、高い地位を獲得しようと思うのならば、高学歴・高偏差値の学校に入ることが肝心だろう。高収入や高い地位は自然と降ってくるものではなく、掴み取るものである。特に学力に関しては、才能もあるかもしれないが、子育て、教育で十分に変わる。仮に一代で成せずとも、少しずつ地位を高めていくことは可能である。金持ちの子と貧乏な子ではスタートラインや環境がそもそも違うという意見もあるようだが、なんのために義務教育、国公立が存在しているのだろうか。やれ私立に通わせたい、習い事をさせたい、そういった点に対して結局親の学がなく、頭がないから無駄な幻想を抱き、見合わない生活をすることになるのである。

 勉強は努力であり、教育は教える側も教えられる側にも忍耐が求められてしまう。だからこそ努力は尊いし賞賛されべきである。努力をないがしろにし、馬鹿にするような人間は真面目に努力することを放棄しているし、落ちぶれてしかるべきである。

 

 しかしながら、そう簡単に現実が変えられるならこんな現状はないわけで……。現実が救われないのなら、フィクションの中でぐらい救いを求めたい。しかし、もうそれすら今は許されない。そういうことなのかもしれない。今も未来も暗い。



【レビュー】羊と鋼の森【感想】

 少し前に羊と鋼の森を見てきました。

 まだ公開中ですが、ネタバレもあります。すみません。

 冒頭は少しぼーっとしていて、曖昧です。

 

 個人的には面白い映画だった。楽器の経験がある人や、音楽(特にクラシック)が好きな人には面白いと思う。話の展開としては起伏が少なく、150分間では少し退屈するように思う。

 山崎賢人演じる外村直樹のキャラクターがよかった。人と接すると少し引っ込んでいて、気が利くわけではなく妙に失言や失礼が多い。もちろん最後には立派に成長するのだが、最近の若い人からすれば外村の考え方や行動を自然に自分と重ねてみることができると思う。 

 ピアノを弾くシーンがたびたび登場するが、城田優が弾けるのは知っているものの、上白石姉妹は本当に弾けるのだろうか。私はピアノのことはわからないが、かなり難しい曲を弾いているように思った。本当ならばすごい。

 上白石姉妹の演じる佐倉姉妹に関しては、キャラクター紹介並びに身長差が逆だったため、どちらが姉かはっきりわかるのに時間がかかった。きちんと事前に情報を得ていればすんなりと見ることができたかもしれない。

 ストーリー後半に向かって、外村と佐倉姉妹との間に恋愛要素が入ってくるかとヒヤヒヤした。盛り上がりの一つになるのか、オリジナルの愚行を押し出す作品は少なくないなか、安易にそれをしなかったのは賢明であった。むしろ姉妹の仲が接近して百合っぽい感じになっていた。尊い

 

 気になる点としては、3つ。なぜ、調律師を目指し、なれたのか。

 調律師に対しての明確な熱意や、憧れ・夢が描かれていない、それでも外村は進路として、仕事として調律師を選んだ。家族はその進路に対して、楽器店の人達も新入社員が入ってくることに納得した。調律師なんて狭き門であろう。劇中でも、秋野匡史のように楽器経験者が夢破れて就くこともある仕事だとすれば、それだけの才能が外村にあるということなのかもしれないが、それだけでどうにかなるとは思えない。だからこそ自分の才能やセンスの無さに外村が苦しんでいくのにつながっているとすれば、必要ではあるが……。

 2つめは、題名。タイトルの意味よく分からない。インパクトはあるが、単純に森をさ迷い何かを見つけるにしては、羊要素が薄い。

3つ目は、水中でもがくシーン。必死さよりも、唐突すぎてギャグっぽくなってる。予算消化のためか?笑

 

 総合としては、万人受けはしないだろうけど良作でした。





雑記

                • あなたは本当によく感謝の言葉を言っていて、偉いね。よく気がつくね。--------

 私はこまめに感謝の言葉を述べるクセがある。別にそれは悪いことではないと思うし、何ならそす望ましいものであるような気もする。しかし、本当に本心からその言葉を言えているかどうかが分からないのだ。どうしてそうなってしまったのか…。
 まずそのクセが作られるにあたっての重要な理由として考えられるのが、感謝の言葉を述べない父に対しての母が苛立っているのを目の当たりにしてきたことである。そういった環境で育ったことで、父を反面教師として感謝の言葉を述べる能力を獲得した。つまりこれは+の成長だと言える。
 そしてもう1つ、母が度々言う、「お前には感謝の心が足りない」である(文言はその時々によって変わる)。大体は私が不服で口答えしたり、私自身が不機嫌で周りに当たるなど、母との関係性が一時的に悪化したときの切り札的に使われる。より幼少の頃には、「そういう事言うならもうご飯は作らない」という文言をよく使っていたが、年を重ねるに連れ生活を支配することに無理ができてきたからだろう。いずれにせよ心を支配すること変わらない。その言葉を向けられると、私にはどうしようもないのである。不服や不機嫌は甘え、信頼を測る行為であり、それと感謝の念は関係がない。むしろこういった不満に耳を傾け、共感してもらうことで、感謝の気持ちをより心から表すことができるのではないかと思う。強制的な敗北感を覚えた私は、父不在の家庭での第一子として相談できる吐き出し口のないまま育ち、歪んでいった。母にも余裕がなかったのだろう。
 今考えると、本当はこの台詞を私ではなく父に向けて言いたかったのかもしれない。苛立っているのを見ることはあれど、この言葉を母が父に対して言っているのを見たことがない。忙しく大変な思いをしている母を父が上手に労ってやっていれば、もっとゆとりのある環境になりえただろう。

 しかし、過去は変えれないし、これを今ぶつけたところでどうにも変わらないだろう。なぜなら母はこの言動を無意識化もしくは忘却しているからだ。
今朝、これをぶつけたい衝動に駈られてしまった。溜め込みたくないのでここに吐き出すことにはなったが、文字に起こすことで冷静になれた。
 よく耐えた、よく消化(昇華)した、自分。あなたは頑張っているよ。

雑記

夢の記録を更新しました。

 

chaohiroki.hatenablog.com

 

 昨日は少し父と話しました。

 資格をとったらどうか、と。社会的に需要のあるものと、自身の適性。前者だけしか見ていない父。親とは、子育てとは、教育、配慮とは……そういったものに目を向けないで生きてこられた時代を羨ましく思う。いくらでも前を向き、未来が明るかった時代。顧みないで進むことができた時代。

 どうしても現状の社会構造や政治経済が悪いと思ってしまう。そういった中で一つい浮かぶのは、議員になること……。今までみたいに未来にかけるだけではなく、現状から着手する。なれるのか、なれないのか。いや、なりたいかどうか。頑張ってみる価値があると思えたなら、やってみたい。やっぱりやってみたいのかもね。

 

 友人よ。意味深なそういった書き方が、どれだけわたしを気にやませるのか。本当に自己中心的で苛立ちもある。今まではそこに触れてきたけれど、今回ばかりはもういいや。結局なんだかんだ甘えてるんだろうよ。私みたいに自分内側で解決すべき問題と、人に話すべき問題を切り離してみるのを気づいてほしいね。とりあえず、距離を置くんだ!私!!この調子だ!!!